「被害者か?加害者か?」と作品ポスターで問うている。確かにステラはどちらでもある。とはいうものの、彼女を加害者だと一刀両断することは私にはできない。
ネタバレを含みつつ。
第二次世界大戦始まりの頃、若いユダヤ人女性ステラは、ベルリンで青春を謳歌していた。シンガーとして、仲間と共にセッションするジャズ、夢はアメリカのコットンクラブで演じる事。
しかし、町ではナチスによるユダヤ人への締め付けが勢いを増し、ステラと両親も、胸に黄色い星を付けて工場で労働する日々を余儀なくされるようになる。更に状況は悪化し、ゲシュタポによってユダヤ人狩りが行われるようになり、それらの人々は強制収容所に送られる事になっていた。何とか隠れ忍んだステラ一家であったが、もう自分たちユダヤ人の人生は風前の灯であることは薄々判っていた。
だが、ステラは足掻く。足掻くという言い方が悪ければ別の表現をしよう。何とか生き残る術を見つけようとする。
ステラが偽の身分証を偽造して、それを同胞に売る事によって生命の安全と金銭を得た事について比較的長い尺を使って描かれている。これがステラの(若い女性にありがちな)享楽的な思考に基づいたものとしてのポジションとなっている事が、その後の彼女の行動との対比となっている。偽の身分証の売買は、絶体絶命の状況で生き延びるためというよりむしろ、抜け目なく世を渡っていくその手段と捉えられなくもない。ひょっとしたらこの部分でステラのあざとさなどを感じ、彼女に偽悪的な思いを抱かされる観客もいるだろう。
だが、その後に続く…本作のテーマである…密告によって同胞を「売る」、つまりゲシュタポに同胞を差し出す行為については…もちろん「売られた」方(およびその遺族)からしてみれば、到底許す事はできず、稀代の悪女として憎しみを浴びせることは当然なのだが、ステラにしてみてももう自分の命を守る為にはこうするしかなかったのだ。志を強く持ってそれをしないということもできたのだろうか。机上としてはできたかもしれない。しかし、ここで真の誇りというものを問うのはあまりにも綺麗事だ。
自分と両親の命を守るため。そうまでしたのに、結局は両親はアウシュビッツに送られ、ステラ本人は生きながら得たものの、心は亡くしてしまうのである。
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