「未体験ゾーンの映画たち2021」で鑑賞。原題は「WAITING FOR THE BARBARIANS」。この題名が正に作品内容を表している。
ジョニー・デップは、サディストの大佐役がハマっていた。マーク・ライランスも穏やかで実直な民政官役がハマっていた。適材適所の配役が作品をより面白くするという好例である。
そして、作品の中から浮かび上がってくる真理がとても興味深く、面白い作品だった。
19世紀。アフリカの砂漠の中にある異国の地に、大国がそのエリア全体を治めようと、まずは民政区を置いて調査を進める。そこには大国から民政官(マーク・ライランス)が派遣されていた。研究熱心な彼は、彼らの遺跡を調査して昔の書簡をコレクションしたり、ネイティブたちと上手く交流しながら、退屈なように見える日々の業務を穏やかにこなしていた。
だが、そこに本国からジョル大佐(ジョニー・デップ)が現れる。生ぬるいやり方の民生官とは違い、初めからネイティブを敵視し、彼らに対して非道な尋問を開始する。それには理由があった。砂漠の向こうには蛮族がいる。彼らが大挙して襲ってくるという確信がある。先手必勝。蛮族が襲ってくる前に、蛮族が良からぬ企みをしていることを突き止め、こちらから討伐に行かなければならない。そのためには、蛮族の情報が必要なのだ。例えネイティブを拷問にかけたとしても。
本当はそうではないかもしれないものを、そうであって欲しいと願うあまりに捏造してしまう。これは程度の違いこそあれ、日常でもある事だろう。
蛮族に襲われるのを恐れて先手を打って蛮族に攻め入るのか、蛮族と呼ばれる者たちはこれまで蛮行をしたことがないから彼らと協調するのか。最初から蛮族と決めつけて事に当たるのか、一つの異民族として交流するのか。
…前者が帝国の論理であり、それが故に黄昏を迎えてしまうのだ。しかし、後者は本作での民政官の論理であったのだけれど、それを貫いたとて必ずしも黄昏を迎えずに済むとは限らない。難しい選択かもしれない。
一方、現場を知らない指揮・指導は必ずや道を誤る。それは歴史の証明だけではなく、常日頃の企業の営みでも繰り返されていることであろう。民政官が大佐によって干されて以降の展開は、「それ見たことか」感満載である。
と言いつつ…民政官だって実は大佐たちと同様に、「本当はそうではないかもしれないものを、そうであって欲しいと願うあまりに捏造して」しまっていたのだ。それは、とある蛮族の女に対する入れ込み方に表されている。その願望…いや、そうなって当然であるという傲慢さは正に大国の論理そのものであり、思い違いも甚だしい。無茶苦茶でサディストな大佐の行為と、一見人助けに見える民政官の行為とは、実は根が同じであるということを表しているのが、皮肉であり真理で、本作の伝えたかったことなのである。
(2021年洋画)