めまぐるしかったけれど面白かった。文豪チャールズ・ディケンズの自伝のような形の展開らしいが、主人公の身に降りかかることを、全て「ツイテいない」と取るか、「想像力の糧になった」と取るか…恐らく主人公の豊かなイマジネーションの土壌となっている、と本作では示しているように思う。原作はチャールズ・ディケンズの「デイヴィッド・コパフィールド」。
イマジネーションの豊かさは、登場人物のキャスティングにも表れていた。血が繋がっているにも関わらず、いや血の繋がりとなんの関係もなくとも、雑多な人種で構成されていることを不思議に思った。そこで鑑賞後にHPを見たところ、「『なるべく多彩なキャストにしたかったんだ』と自身が語る通り、あらゆる人種を混ぜ合わせたキャスティングに監督はこだわり、譲らなかったという。」と書いてあった。ふむふむ、なるほど。それでデイヴィッド(デブ・パテル)自体が白人の母親(恐らく父親も)から生まれたにも関わらず有色人種の青年だったり、お世話になった法律事務所の父娘がアジア人と黒人の親子だったりするのだね。多様性を目指したキャスティングとのことであったが、古典とも言える原作のヴィクトリア王朝時代の設定にも関わらず、ダイバーシティを標榜しているとは!
そういう事も含めて、豊かで自由な発想。愛やお金に関する理不尽さもまた突き抜けている。冷静に見れば浮き沈みが激しく不幸が降りかかってばかりのデイヴィッドなのであるが、不幸の波に呑まれるというよりも波を乗りこなしつつ自分の道を見つけていくのは愉快だ。これが「おしん」的な徹底的な暗い話にならないのは監督アーマンド・イヌアッチの目指した方向なのだと思う。そしてその波にスパイスを振りかける他の登場人物たちも個性的で面白い。もちろん継父とその姉がデイヴィッドにした仕打ちは許されざることだけれど。
作中何度もデイヴィッドの名前が呼び間違えられるのだけれど、これもデイヴィッドが何者であるのか、何物を目指しているのか、が他の誰にも判らない(ひょっとしたら本人にさえ判っていない)ことを表しているのだと思った。本来名前を間違えられる(覚えてもらえない)のは非常に不愉快なことであるし、デイヴィッド本人もそのことを何度も訂正したりしているのだが、その内それが可笑しみに変わっていく。デイ何とかであろうとコパ何とかであろうと、そんなことは大したことではないのだ、きっと。デイヴィッドがデイヴィッドとして存在しているそれが唯一無二なのである。
監督アーマンド・イヌアッチは、「スターリンの葬送狂想曲」の監督である。

(2021年洋画)