2016年に日本公開された「帰ってきたヒトラー」のリメイク…というかイタリア版である。イタリアだから「帰ってきたムッソリーニ」。第二次世界大戦の時代にドイツではヒトラーがナチズムを、イタリアではムッソリーニがファシズムを国家と国民に浸透させた。そして現代の世に死んだはずの彼らが戻って来るというお話である。
基本路線は「帰ってきたヒトラー」と同じ。国民の現政権に対する不満も同じ。ドキュメント風に撮られている国民の声は、本当に取材したヤラセ無しのものなのだろうか(犬のおばさまのシーンは別として)。だとしたら、ヨーロッパ大陸はかなり症状が進んでいると言わざるを得ない。ナショナリズムの症状というか。ダイバーシティの真っ向否定である。悪いのは社会だし、奴らだし、という大人になりたくない悪童のような。
展開その他、「帰ってきたヒトラー」と同じなので内容は省くが、ヒトラーの時はヒトラーが誰でも共通認識のあるアイコンだったが故に、作品の持つ風刺ややがて来る空恐ろしさがすっと判り易く入ってきたが、ムッソリーニはどちらかというとヒトラー程には世界的な巨悪を代表している感が無い為に、もし本作の方を先に観ていたら、噛み締めずに流されて鑑賞してしまったかもしれない。そこに逆に(自分自身に対すると言っていいのかもだが)恐ろしさを感じる。ナチズムがファシズムから特化した思想であることを(諸説あるだろうが私はこのように考えている)考えると実に危険極まりない。ファシズムは、繰り返される歴史の中でも現代に至るまで脈々と続き永らえているものだとしたら…。
そう、もしかしたら、ムッソリーニが全世界的にはヒトラー程には極悪人を代表していないことが、かえってこの作品の持つ警鐘なのかもしれない。例えば日本人でムッソリーニの顔貌を事細かに思い出せる人がどれだけいるだろうか?正直に言うと、私はムッソリーニの顔貌を事細かに覚えていないので、本作のムッソリーニ役が実在したムッソリーニに似ているのかさえも判らない。ヒトラーであれば、デフォルメしたものも含めてその顔貌を思い出せる人はほぼ全員と言っていいかと思う。だが、ムッソリーニについてはそうではない、というその部分も含めて、ファシズムの普遍性を表出したかもしれない。
行き過ぎたナショナリズム、全体主義。これは、遠くの別の国々のお話なのだろうか?足音もなく忍び寄ってきて、いずれその主張が自分を取り囲んだ時に、流されないと言い切れる自信があるだろうか?頭の中に心の中に、鐘を鳴らす作品であった。

※参考※「帰って来たヒトラー」
(2019年洋画)
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