「希望もまた手放せない悪徳である」ージョルジョ・シェルパネンコ
冒頭はかなりショッキングなシーンである。川面に浮かぶ少女。御祝いの席に着るようなドレスで着飾っているが、そのドレスは一部が血にまみれている。大きなネットで彼女を救い上げ、ひた走る一艘のモーターボート。野次馬が、警察が、水上でボートの後を追う。やがてそれらは皆とあるヨットクラブの水門に到着する。これがプロローグ。遠い過去の話である。
いずれそこが同じヨットクラブの入り口であることが判るのだが…とあるイタリアの港で、女が1人せわしなく歩いている。各戸に出向いて用を足す。一匹の犬を連れて。女はイラついている。ファティマが逃げたのだ。今夜行くべき場所があるのに、どこにも見当たらない。子供を手放すのが嫌だから?
女の名はマリア。マリアは元締めの女に相談をする。それなら別の女を連れて行くしかないわね。マリアはもう1人別の女を連れて、夜のボートで出掛ける。2人とも大きなお腹を抱えている。妊娠しているのだ。何故地下鉄を使わないのか?と聞かれて、人目につかないように、と答えるマリア。
ボートは暗い川を漕ぎ出でる。途中で雨が降ってくる。大きな覆いをボートに被せ、道中は続く。ボートの覆いの中で夕食をとる。着いた場所は薄暗く、陸に上がって歩いて行くと、途中に馬が一頭繋がれており、そこを経るとアパートのような建物の一つの扉に至る。
マリアは扉を叩き、中から出て来た女に連れて来た女達を引き渡す。連れて来た女2人に封筒に入った金を渡す。そして1人(と一匹)で帰途に着く。
マリアと犬。その日常。マリアは姉と共に母の面倒を見ている。母はつい長風呂をして湯船の中で眠ってしまうような感じで放ってはおけない。
元締めの老婦人にヘロインを打つ手伝いをするマリア。女は言う。「高齢者にはこれを無料で配布すべきよ」思い出に苦しまなくて済むから。
相変わらずファティマは見つからない。これは結構ヤバいことである。そして実はマリアは気がついていた。自分が妊娠していることを。
マリアは母に妊娠したことを告白する。もちろん誰の子かはわからない。マリアは娼婦なのだから。そして娼婦が妊娠した時にとるべき道は2つある。ひとつは堕胎。もうひとつは、産んで知らない誰かに…子供を欲しがっている誰かに…売ることだ。
もちろんマリアはその習わしを知っていた。マリアはそんな女達の斡旋の仕事も請け負っていたのだから。
母はかかりつけの医者にマリアを連れて行く。医者は年寄りで、小さい頃からマリアを診ている。その医者が言うには、胎児は問題なく育っている。だが出産は不可能だ。その昔、マリアに大変なことが起きた時、マリアを診たのは他でもない自分だが、見た目の傷は癒えたけれど、体内は本当にボロボロだった。例えれば壺を糊で貼ったような体内なのだと。とても出産には耐えられない。
診察の場には元締めも居た。マリアは彼女に聞く。ヘロインってどう?ーシルクのコートと同じ…お前には似合わない。
マリアは、ファティマの件が済んだら堕胎する、と言う。
11週目。
雨模様の日。教会の門扉に祝い事の飾りがかかっている。友人のティナの結婚式だ。普段着でついふらりと立ち寄った風で、マリアはそこを訪れる。ティナは歓待する。親友のあなたを招待し忘れるなんて私もバカよね、と言いながら。親類の子供達がはしゃいでいるのを見やりながらティナは言う。小さい頃の私達みたいに笑ってかけっこしている。…そう、あの頃は何も知らなかったのだ。ティナは続ける。私は今大きな腫瘍があると医者から診断された。4人の子供は顔も見ないで手放した。せめて結婚だけはしておこうかと思って。
ファティマが見つかった!どこかの空き家に隠れていたのだ。やはり子供を手放したくなくなったのに違いない。大きなお腹をしたファティマを激しく責めるマリア。ファティマは許しを乞う。もうわかったから。従うから。そしてマリアはファティマを夜のボートに乗せる。
だが…目的地とは違う茂みにマリアはボートを停める。ここを上がって行った先に祠があってその先に教会がある。きっと助けてくれるはずだ、と。マリアはファティマを逃したのだ。
何故そんなことをしたのかはわからない。だが、もうしてしまったことは取り消せない。マリアは売春組織を裏切ったのだ。ただでは済まないことは目に見えている。マリアは逃げなければならない。犬を連れたマリアは逃げて逃げて、とある家のドアを叩く。黒人の女の子が出て来て「合言葉は?」と聞く。ここはシマの外である。マリアはその家の女主人ブレッシングの家に匿ってもらうことにしたのだ。
ブレッシングは、過去に娘ヴァージンを手放せなかった女だ。さっきドアに出て来た女の子がそのヴァージンである。マリアはヴァージンのベッドに一緒に寝かせてもらう。犬を触らせ、自分の愛着しているプルオーバーをあげる。こうしてフードをすっぽり被ると、嫌なことから自分を守れるのよ、と。
翌朝、マリアはヴァージンとその家の川沿いのテラスに出た。この辺りはみんな川沿いに家があり、そこから水面を見下ろすことができる。娼婦が客を取る時にも、女達は川沿いのベンチに腰を掛け、ボートで訪れる男達の品定めに応じる。ここはそんな場所なのだ。
隣の家の中年男もテラスに出ていた。偏屈小言オヤジとヴァージンは呼ぶ。その男とヴァージンは軽口を叩き合う。そしてマリアとヴァージンは、その男の家を訪問する。男は美味しそうなブランチをふるまってくれる。
男はカルロ・ペングェといい、口は悪いが心根は優しそうな男であった。何故かこの場所で世捨人のような生活を送っている。食事をしながら、問わず語りに互いのことを話して行く3人(と一匹)。カルロはふと、古びた缶ケースを持ってくる。それは何?と聞かれると、洗濯機の記念品だと答える。…昔、カルロは遊園地を経営していた。洗濯機とは、まるで洗濯槽の中のような円筒の中に背中をつけて立ち、円筒が加速するのに身体を預ける遊具だ。ぐるぐると回って加速する遊具は次第に斜めに傾いていくのだが、遠心力が働いて乗客は弾き飛ばされることはない。まるで洗濯槽の原理そのものなので、カルロはこの遊具を洗濯機と呼んでいた。
缶の中には写真の束が入っていた。それが洗濯機の記念品だ。乗ってきた子供の写真。みんな洗濯機の恐怖の中で思い思いの恐怖の表情をしている。それが面白くて愛おしくて、カルロは乗ってきた子供の写真を撮ったのだ。撮った写真は子供の親にあげるのだが、中にはもらって帰らない親もいる。その置き去りにされた写真を缶に入れてとっておいてあるのだ。こんな表情、滅多に見られないのにもらって帰らない親もいてね…自分の子供に興味がないんだ。
写真を見ていく内に、マリアは一枚の写真にはっとする。その写真の少女は、聖体礼拝の白いドレスを着ている。…これは私。この子を覚えている?
写真の少女は他の子供達とは違って表情を全く変えていなかった。身じろぎもしていない。だって私は怖くなかった。そう、この頃から、そして今でも怖いという感情はマリアにはなかったのだ。
覚えているとも。カルロはマリアを覚えていた。だが、洗濯機の記念品で、唯一恐怖の表情を見せない写真の子供だから、ということだけが彼女を覚えていた理由ではない。
マリアとヴァージンはカルロに連れられて、今はカルロが手放してしまった廃墟の遊園地に出掛ける。夜の遊園地だ。カルロは電源を入れ、あの洗濯機に3人で乗り込む。そこだけが楽しい遊園地と化した。はしゃぎながら、音楽に合わせて洗濯機の中で回る3人なのだった。
13週目。
翌朝マリアはブレッシングに呼ばれ、客を取るように言われる。売春をしろというのだ。ただでは置いておく訳にはいかない。客からもらうのは50ユーロ、半分ずつの取り分で。マリアは仕方なくそれに従う。家の前の土手には何脚も椅子が並んでいて、既に女達はそこで客引きをしていた。ボートに乗ってやってくる客に粉をかけるのだ。その内の一つの椅子に座って川面を眺めていると、男達が乗ったボートがやってきて、女達を品定めする。しばらくの後、マリアは衝撃を受ける。あの、自分が所属していた、逃げてきた組織の男連中がボートの一つに乗って来たのだ。マリアは驚き、相手もマリアを見てボートを降りて追いかけて来る。マリアは土手を駆け上がって逃げる。
愛犬と共に逃げるマリア。走って走って走って…やがて、草むらに建てられた簡易テントのようなものを発見する。そこに逃げ込むかどうか躊躇していると、シュッという不気味な音と共に草むらから毒ヘビが這い出てきた。愛犬に、ヘビに構うなと注意したものの既に遅く、愛犬は毒ヘビに噛まれてしまった。哀しい声を出す愛犬。しばらくはマリアと歩いたものの、やがて歩みが遅くなり、そして遂に道中で息絶えてしまった。
絶望に暮れるマリア。愛犬を簡素に弔い、徒歩で逃げる。だが行くあてもないし、行ける距離も知れている。結局街中に出て、慈善施設の扉のブザーを鳴らす。…だが、入ることはできなかった。決意がつかなかったのだ。
28週目。
ティナが結婚式を挙げていた教会の門扉に、喪の印がかかっている。
40週目。
マリアは結局、自分が女達にそうしてきたように、今や大きなお腹を抱えて仲介人に連れられてボートに乗っている。マリアの他にあと2人の女も乗っている。例の場所に着いた。他の女達は金を受け取っていたが、マリアには報酬はない。組織を裏切ったマリアに報酬は無縁だ。
そのあと、2人の女達と共にひとつの狭い部屋に押し込められる。暖房はここ。食事はインド人が運んで来る。辛くない調理法だから大丈夫だ、と言い残し、見張り役の女は出て行く。ここで出産まで過ごすのだ。
翌朝目覚めたら、マリアは部屋に一人きりであった。見張り役の女もいない。マリアは部屋の外に出てみる。冷たい空気。部屋の外を歩いて行くと、囲いの中に馬がいた。この仕事を仕切っていた時にいつも見慣れていた馬だ。マリアは馬を撫で、そして馬の綱を外して外に連れ出す。海岸まで出て、馬の手を放す。自由を…私には得られない自由を…。
だが、見張り役の女に捕まってしまう。
マリアは海岸で寛いでいる元締めの所に連れて行かれる。…何がしたいのだい?自由になりたいのかい?
みんな自由に取り憑かれている。意味も解らずに。
マリアが会いたかったのは、行動を共にしたかったのは…カルロ・ペングェ。そう、カルロ・ペングェ。マリアが幼い頃暴行を受けて川に捨てられた時に、川から引き上げて助けたのに、暴行犯と言われ村八分にされたのがカルロ・ペングェの素性である。これももしかしたら運命なのかもしれない。そして元締めのお目こぼしを受けたのか、マリアはそこから脱出することができ、カルロ・ペングェと逃げることができた。売春宿が家庭で幸せそうには思えなかったヴァージンも連れて行く。
カルロ・ペングェが知っている海辺の廃墟に逃げ込み、マリアはそこで出産を迎える。燃え盛る暖炉の炎。苦しみながらもマリアは無事出産を終える。…これが「誕生」よ。海岸に出て、朝日を見ながら赤ん坊を抱くマリア。
Q&Aは、監督・脚本のエドアルド・デ・アンジェリスと主演女優のピーナ・トゥルコが登壇。
エドアルド・デ・アンジェリス監督:ナポリ北西の海岸沿いをロケ地に選んだ。自分自身ここからあまり遠くない場所で生まれたのだが、別の映画を撮っている時にここを見つけた。この場所は今は荒廃しているが、かつては美しかった。今でもその美しさの面影は残っているが。それ以来この土地を離れることができなくなったのだが、どの場所をとっても美しさと醜さが共存しており、破壊と再生が共存している。
実際にそこで売春や暴力が蔓延っているかというと、あくまで監督のイマジネーションの話である。だが、ナポリのとある川沿いには売春宿が沢山ある。彼女達はれっきとした奴隷なのだ。それを忘れてはならない。
女優ピーナ・トゥルコ:監督は要求するものが多くて…つまり愛の気持ちが強くて…とても大変な監督だった。まず、身体的な作業から仕事を始めた。自分の体を作り出し、人物を記憶する作業だ。監督と一緒に愛を持って人物を創り上げることができた。
監督:マリアが逃げ込んで匿われた黒人女性の家でパーティが開かれていたが、その時会場に居た黒人女性が歌った歌が「真実が訪れるだろう」という歌である。長い旅をして靴がボロボロになって、でもその果てには真実が訪れるだろう、という歌詞だ。曲の選定については、台本を見ながら書いてもらったり、撮影を見ながら書いてもらったり、持っている曲を使わせてもらったり、それぞれである。
(歌もそうだが、何気ないBGMや効果音もとても良かった、と私は思っている。)
売春を仕切っている男性が少なく、売春組織の実務が女性だけで行われているように見えたことについて、その意図は、自分自身が3人の女性に育てられたこともあって、どうしても女性を中心に描いてしまうが、それは別として…。冒頭で「希望もまた手放せない悪徳である」と出したが、男性の役割=女性を助ける、という基本的な役割を失ってしまった希望のない人生を生きている男達がたくさんいるので、それを表していたのかもしれない。希望のない人生を送っている男達は、マリアの中にも表されている。だが、男とか女とかいうだけでなく、人物一人一人の持っている意味、希望を失くし、希望を持たないようにして生きていく人たちを登場させている。
ラストは寒い冬、死と隣り合わせの中、そこで火をつけることによって「生」の再生となるシーンである。
また、本編が終わったあとのエピローグで、マリアとカルロと赤ん坊が眠っている中、誰かわからない人物が小屋に入ってきて、彼らにそっと毛布をかけ直していくのだが、あれは誰でどのような解釈をすればいいのか?と観客誰もが思っていたのだが、それについてはこういうことのようだ。監督が「人生にこんなことが起こって欲しいな」と思うことを描いたのだという。つまり、私達が眠っている時に、誰かが毛布をかけてくれたらいいな、と。それは神様かもしれないし。