コンペティション作品。マレーシア映画。監督のエドモンド・ヨウは最優秀監督賞を受賞。とても喜ばしい。監督は授賞式で涙を流していた。
喜ばしいんだけど、私はこの監督の作品は大好きなんだけど、本作はちょっと私には難解であった。難解、というのとは少し違うのかもしれないけれど、構成に追いつけて行けなかったというか。
水辺に張り出したテラスがある食堂。そこでフイリンはアルバイトをしている。家に帰ると一緒に住んでいる女友達がいる。スパークリングの真似事をしてじゃれ合う2人。女友達は濃い化粧をする。これから仕事なのだ。パンという男が迎えに来る。
フイリンは、台湾に留学生する為のお金を貯めていた。稼いだお金は部屋の引き出しの中の箱に大切にしまってある。
フイリンはバスを待っていた。バイトへ行くのだ。なかなか来ないバスを待つうち、知り合いのおじさんがバイクで通りかかる。フイリンは声をかけられそのおじさんのバイクに乗せてもらってバイト先へ向かう。バイト先に着くとバイクを乗り換え配達に行く。その食堂はデリバリーも行なっているのだ。
帰り道、フイリンは親戚のお爺さんの家に帰って寄る。彼は伝統的な人形劇に使う紙人形を作る作り手だった。人形劇はタイ人とマレー人両方が出て来る作品で、紙人形もタイ人とマレー人の両方だ。お爺さんはタイ語とマレー語を話すことができる。ここは国境の近くだから。
家に帰ると、女友達はパンに殴られていた。泣きながら化粧を直す女友達。殴られてアザができていても、仕事には行かなければならない。彼女が出て行ってしばらくして、フイリンは彼女がホステスとして勤めている店に行ってみる。店は怪しげで幻想的だ。フイリンは明らかに場違いであった。遠目に女友達の姿を見つける。彼女は顔のアザを物ともせず、艶やかに笑って接客をしている。
店から帰るとパンが待っていて謝りに来ていた。何か手土産を持っている。
変わらない日常のはずだった。雨の中、フイリンは配達に行く。雑貨店のような場所で店番の青年にデリバリーの弁当を渡す。彼は彼女のことを好きみたいだ。
だが、帰宅して、フイリンは異変に気づく。部屋の様子がおかしい。女友達もいない。確認すると、貯めていたお金が盗られていた。慌てて女友達がホステスをしている店に行くも、もう彼女はいない。その足ですぐにパンの勤め先にも走る。竹材の切り出しを行なっている工場のような所だ。だが、パンも勤め先から消えていた。
怒りまくり、そして茫然とするフイリン。台湾に留学したいのだ。必要なお金はあと少しだったのに。どうすればいいのだろうか?…親戚のデヴィッドのオフィスを訪問する。こざっぱりしたオフィスで、水槽には美しい金魚が泳いでいる。デヴィッドはフイリンに同情しつつ、こう言う。例の仕事のことは考えたか?もしやるなら明日市場に行ってウィンに会え。オフィスを出るフイリンと入れ違うように、青年医師ウェンが入って来る。互いと水槽の中の金魚とを見つめ合う2人。
翌日、多民族がひしめき合う市場でフイリンはウィンに会う。広東語はできるのか?幾つか確認をされ、フイリンはその「例の仕事」にありつく。
次にフイリンがウィンに連れられて行った場所は、どこかの水辺であった。川なのか海なのか、入江のような場所である。他にも数人男たちがいる。ウィンは言う。船頭が少女たちに触れないようにしろ。商品に傷がつく。小舟に少女たちが乗せられて来た。少女だけではなく、子供を含めた一家もいる。どうやら難民のようだ。フイリンは命ぜられて彼らの写真をスマホで撮る。動画も写す。
小舟を降ろされた彼らは、男たちだけがトラックの荷台に乗せられて移動させられる。男なら子供も、である。トラックは海岸線をひた走る。やがて夜になり、到着したのは一軒のあばら家であった。先ほどフイリンが写真を撮った男の弟の家だという。ウィンたちはトラックの中に難民たちを置いて、その弟に兄の写真を見せて持ちかける。3000払えば兄に職を紹介するが。だが、弟は1000しか払えないと答える。それを聞くとウィンたちは弟に殴る蹴るの暴行を加える。更には腕を切り落とせ、と言う。
これが「例の仕事」の正体であった。フイリンはこの仕事に同行し、写真を撮り、そして仕事が終わるとその場で報酬をもらった。報酬はまた家のあの箱の中にしまっておく。
別の晩、仕事仲間は船から死んだ男たちの遺体を運び出す。翌朝、好きなものを持っていけと言われ、浜辺に並べた男たちの遺体から財布や携帯電話を抜き取る。家に帰って今日の戦利品を見るフイリン。財布には女性の写真が入っていた。それも抜き取って、自分がお金を貯めている箱に入れる。鏡の中の自分を見つめて「あっちへ行け」という仕草をする。
フイリンが「例の仕事」で商品として扱っているのは、ロヒンギャだったのだ。フイリンは、人身売買の片棒を担いでいることになってしまった。ロヒンギャ…ここで死ぬか、ミャンマーで虐殺されるか。どちらに転んだとしても、彼らの運命に希望はない。
親戚のお爺さんの作った人形劇が夜に上演される。あのタイ人とマレー人が出て来る紙人形劇だ。伝統的な内容で、王女と悪魔との戦いが描かれる。王女と悪魔は永遠に同じ輪の中に閉じ込められ、同じ質問と同じ答えが繰り返される。私は死んだのかしら?王女と悪魔のやり取りがメタファーとなっているかのようだ。
ある時、いつものように「例の仕事」を行なっていると、上船直後に乗っていた子供たちに次々と逃げられてしまった。彼らは次々に林の中に逃げ込んで、追いかけても捕らえることができなかった。フイリンはウィンと一緒に本部で散々に痛めつけられる。殴る蹴るだ。ウィンは、カタをつけるぞ、と言った。再びメンバーを連れて逃げた子供たちを探しに行くことになった。今度はナタなどの刃物を携えて。見つけたら殺していいというのだ。林の中を探すもなかなか見つからない。そもそもフイリンは、本当に見つけたいのかも解らない。とぼとぼと探し歩きながら、ナタで木を切りつけるフイリン。その時、小さな女の子がうずくまっているのを見つけた。逃げた子供たちの内の一人だ。フイリンはその少女の首を絞めるが、殺せない。抱き締めてしまう。その子をおんぶして歩き、一緒に逃げよう、と言うフイリン。そして一人二人と、子供たちがフイリンの所に集まって来ることになってしまった。だが、自分一人の力ではどうしようもできない。フイリンは、前にオフィスで会った青年医師を訪ねて行き、隠れているその子供たちを見せる。彼に助けを求めたのだ。
場面転換。
正直、ここからの場面転換以降、私にはその展開が混沌として何が何だかよく解らなかった。どう見てもフイリンと思える女が出て来るのだが、明らかにフイリンではない設定だ。そこで、東京国際映画祭の解説を読んでみると、
「台湾行きを願うフイリンは貯金を失った結果、奇妙な仕事に手を出す。それはロヒンギャ移民に対する残虐行為に関わるビジネスだった。そんな彼女にとって一筋の光は、フイリンを昔の知り合いだと信じている若い病院スタッフのウェイだった…。」
と書いてある。
それでようやく合点がいった。場面転換の後に出て来る女は、顔といい頭といいぐるぐる巻きの包帯だらけで入院療養しているのだが、一点だけ包帯の中からのぞく彼女の目元は、フイリンのそれなのである。だから、フイリンが話の流れで子供たちを匿ったことにより本部で最大限の暴行を受けて入院しているのかと思った位なのだが、それにしてはその後の展開が妙であった。つまりこの場面転換からのシーンは、青年医師ウェンの回想なのである。かつてウェンは入院していた少女に心惹かれていた。その少女にそっくりなフイリンに面影を重ね合わせていたということだ。だから、フイリンの突然の頼み…子供たちを匿うことに協力して欲しいという頼みに応じることになる。更にはフイリンとの逃避行にも同行することになるのだ。
そしてここから、時間と空間が混在してくる展開となる。入院している少女の所に女友達が見舞いに来る。ウェンは彼女とデートを重ねる。これは恐らく思い出の場面。その頃、ウェンは辞めて行く同僚から夢の話を聞かされる。妻が16歳のロヒンギャだったという悪夢だ。これも恐らく思い出の場面。
そして又場面が戻る。現在の場面で、ウェンはフイリンを連れて逃げる。子供たちを匿ったことによってフイリンが制裁を受けることはわかりきっていたから。そしてウィンが銃を持って追って来る。
まだ食堂でアルバイトをしていた頃デリバリーに行っていた雑貨店の店番の青年が、フイリンのことをテラスのある食堂で待つ。フイリンがバイトに来なくなって以来、フイリンに会いたくて仕方がなかったのだ。彼は当時フイリンにプロポーズさえしていた。答えはもらっていなかったけれど…。彼はフイリンが当時デリバリーに使っていたバイクを見つけて撫で回す。そこへ怒り心頭のウィンたちがやってきて、彼にフイリンの居場所を吐け、と拷問を加える。彼は何も知らないのに。
その間にも、ウェンとフイリンの逃避行は続く。2人は灯台にやって来る。そこにはウィンがタバコを吸いながら2人を待ち構えていた。遂にウェンとフイリンは彼を殺して海に捨ててしまう。そしてそのまましばらく灯台にいるが、やがて外に出て、…さて、どこに行く?
2人はフイリンの親戚のお爺さんの家を訪ねるが、そこには誰も居ない。紙人形も打ち捨てられている。もしかしたら追っ手がお爺さんをどうにかしてしまったのかもしれない。結局何もかも失ってしまったのだろうか?窓の外を見ると、何故か木の根元から煙が出ている。気づくとあの助けた子供たちがいる。これは幻なのか…?
Q&Aには監督のエドモンド・ヨウと主演女優のダフネ・ローが登壇。
2年前に北マレーシアで200人以上の死体が森の中に埋められていたという事件があった。ロヒンギャに対する残虐行為だ。人身売買もあった。ロヒンギャは、ミャンマーよりもより良い生活を夢見てやって来たのにそうはならなかった。
実は当時はこのことについてあまり意識していなかった。あー、移民だなー、という感じ。だが、これはいけない、もっと探らなければいけない、と思うようになった。
マレーシアに来たい人も、マレーシアを出たい人も沢山いる。もしかしたら平行な関係なのかもしれない。
舞台はタイとマレーシアの国境付近。マレーシアは元々多民族、多文化、多人種の国。全く違う国に来たような、言葉が混ざり合った世界。
人形劇は象徴として使っている。人形劇というのは死にゆく芸術だと思う。忘れられたものを言葉にできたら、という思いがあった。アケラットとはアフター・ライフのこと。ロヒンギャ語で来世のことだ(マレー語ではアヒラット)。(人形劇でも繰り返し来世のことが語られている)
フイリンが子供たちを探す林で木を切りつけたシーンは、木をボスに見立てている。人身売買なんて嫌だ、という気持ち。しかし、振り返ると逃亡者がいて追いかけなければならない。そのコントラストを表したシーンである。
脚本にはあまり細かいセリフを入れず、クリエイティブな感じで、みんなで作り上げて行く感じで進行した。ダフネ、今のシーンであなたはどう感じる?どういう行為をする?というような。
女優のダフネいわく、脚本を見てさすがはエドモンド・ヨウ監督だな、と思った。彼は世界を思いやれる。それを世界に伝えられるメディアになれるのだ、と思った。演技で表せるものは言葉にするな、と言われていたので、かなりセリフを削除した。
人間の残虐性を描き、来世への祈りを描く力強い作品だと思う。ロヒンギャの移民という、今国際社会でも問題となっていることを避けることなく見据えたことは素晴らしい。だが、やはりどうしても時間と空間の概念、それぞれの思いが複雑で、解説を読まなければまるで思い至らなかった部分があったので、それでは訴求したいことがきちんと伝わらないのではないだろうか?と感じてしまったのは確かである。
(2017年アジア映画)