今年の第30回東京国際映画祭で、コンペティション作品としては最初に観た作品である。ルクセンブルク作品。コンペ部門では無冠である。
無冠ではあるが、私はこの作品とても面白かった!不条理がまかり通るその小さな世界では、一つ一つの不条理がまるで条理的であると捉えられている、それこそが正に不条理。地縁・血縁が持つ恐怖の根深さ。上映後にようやくポスターのビジュアルの意味が判るという「あー、ヤラレタ!」の気持ちに近い納得感。
緩やかな草原を1人の男が下って来る。森から草原へと続く道。周りには麦畑。下方には村の灯り。夜明けの風景である。やがて辺りは明るくなり、明けていく明かりに染まる金色の麦の穂が画面いっぱいに広がる。
その男は一軒の農家に辿り着く。彼は農家の主人に頼む。農場で雇ってくれないだろうか?農家の主人は答える。ウチはポーランド人しか雇わない。男は食い下がる。薄給でもいいから。農家の主人は気分を害したようだ。農家が薄給だなんて誰が言った?
結局交渉は不発に終わり、男はあてどなく村を歩くことになる。夜になり、酒場で酒を飲む。そこでは簡素な祭りのようなものが開かれていて、村人が前庭でダンスをしていた。そこで男は1人の娘と出会う。互いに名を名乗る。男はイェンス。娘はルーシー。
イェンスはルーシーの部屋で一夜を過ごす。問わず語りにルーシーは話す。村の変わらない生活。私だってこんな村にいたくない。何故出て行かない?とイェンスに聞かれ、勇気がないから、と答える。ルーシーと寝た後、イェンスはそっと部屋を出て行く。ルーシーの部屋の壁にはハリウッドスターのポスターが貼ってあった。階下には家族写真。そしてリビングでは幼い息子がゲームをしていた。
イェンスはそのまま村の道路の片隅で、野宿の形に横たわり休んだ。するとそこに一台の車がやってきた。中からジョスという男が出てきて言うには、イェンスに農場の仕事を紹介するというのだ。
車に乗り込み、とある農家に着いた。クライヤー家である。今日からここで収穫の仕事を手伝うことになる。イェンスは家から少し離れた場所に置かれているトレーラーハウスを貸し与えられる。トレーラーハウスに着いて一人になるなり、イェンスは肌身離さなかった手提げ鞄をトレーラーハウスの中の天袋にしまい込む。
農場での仕事は、麦を刈り取り、刈り取った後の干し草を束にして集め、貯蓄用に倉庫に持ち帰ることであった。トラクターを走らせ、刈り取った草をトラックの荷台に積む。ふと見ると、もう一つの別のトラックの荷台にあのルーシーが乗って作業をしていた。微笑み合うイェンスとルーシー。
村での生活は、初めのうちこそ排他的な村人たちに居心地の悪さを感じていたが、共に食事をとり酒を酌み交わすうちに、段々と垣根が取り払われて行くような感じだった。特に、ジョスの配慮が強かった。イェンスに酒を振る舞いこの村の印象を聞く。その内慣れるだろう。だが、人妻はダメだ。何か楽器はできるのか?と聞いてくる。何もできないと答えるイェンスに、楽器はできた方がいい、と言って、トランペットを貸し与える。
トレーラーハウスに戻ったイェンスは天袋に入れていた鞄の中身を確認する。そこには大量の金が入っていた。実はイェンスは、ドイツで仲間とカジノ強盗を犯し、逃げて来たのだ。
毎日は平穏といえば平穏に過ぎていく。時々ルーシーと寝る。ルーシーはイェンスの身体に傷跡を発見する。どこでつけたの?前の所?…恐らく強盗事件の時についた傷なのだろうが、イェンスは何も答えない。
ある日イェンスがトレーラーハウスに戻ると、ルーシーの息子が忍び込んでいた。イェンスは驚き追い出す。息子も慌てて逃げて行く。イェンスは鞄の所在と無事を確認し、ふと気がつくと、息子が何か小さな箱を置いていったことに気づいた。そこには、小さな子供が持っているのには相応しくない物が入っていた。裸の女の写真。何枚も何枚も。グラビアなどではなく、そこらで撮ったスナップショットのようなものだ。ちょっと気持ち悪いぐらいにリアルなものだ。
イェンスはトレーラーハウスの近くの地面に土を掘り、鞄を隠すことにした。
ある晩、イェンスが夜道を歩いて行くと、前方にルーシーが歩いていた。あとをつけて行くことにする。ルーシーはこちらには気付かない。ルーシーは夜の草原をひたすら歩き、やがて一軒の家の中に入って行く。家の前には黒い犬がいる。まるで門番のように。この夜のルーシーの行動は謎であった。
翌日、イェンスは昨夜ルーシーが訪れていた家の中に一人入ってみた。そこは廃屋のようであった。だが、割と最近まで人が暮らしていた形跡がある。持ち主はジョルジュ・オスタマイヤー。何故ルーシーが夜中に人目を憚るようにしてこの家に入って行ったのかは謎のままである。
村での仕事は農家の仕事。作物の収穫のこともあれば、家畜の世話もある。村人達は割と一つの仕事を複数人で行う傾向がある。イェンスも様々な仕事によく駆り出された。ある日、逃げた家畜を捉えるため、大きな麻酔銃で牛を仕留める仕事があった。これがのちにイェンスの身に降りかかる出来事の伏線となっているのだが…。
そんな村の仕事にも慣れ、貸してもらったトランペットを練習して村の楽隊にも参加し(指揮者はジョシュ)、イェンスは段々と村の一員となっていくようだった。ある日村のカフェでみんなで食事をしたり寛いだりしていると、警察がやって来る。彼らは手配書を持っていた。ケルンのカジノに3人組の男が押し入り強盗を働き、現在逃走中だと言うのだ。こいつを見たことがないか?流れ者などは来ていないか?警察に怯えるイェンス。だが、何故かその場にいた村人は口を揃えてそんな奴は見たことがない、という。手配書の人相はかなりイェンスに似ているにも関わらず、だ。それどころか、警察がイェンスの席にやって来て身元を尋問しようとした時、ジョシュが庇う。こいつは何年も前からここにいるのだ、と。
不思議な共存関係に満ちた日常。農作業、農作業の合間の村人たちとの遊興。ルーシーとの逢瀬。やがてルーシーはイェンスに打ち明ける。あの廃屋は、前に夫ジョルジュと暮らしていた家。彼が失踪したから住まなくなった。彼が失踪したので、家畜は村人たちに分けたの。
そしてルーシーはその家に家財道具を入れ、住めるように体裁を整える。イェンスと暮らすためだ。その手伝いをする内に、イェンスははたと気づく。あの例の女性達の裸の写真、あれは全てこの家で撮影されていたのだと。
その気づきを押し殺し、村の日常に溶け込もうとするイェンス。だが思わぬ訪問者がやって来る。強盗仲間の内の一人が、イェンスのトレーラーハウスに訪ねて来たのだ。何故来たのだ?!2ヶ月はそれぞれお互いに別々に身を隠しておこうと約束したではないか?相手は言う。金が確かに保管されているかどうかを確認に。いや、もう金を分けてもいい頃なのではないか?
イェンスは男を追い出し、また村の日常に戻る。ルーシーと同棲を試みる。楽隊の練習も欠かさない。ルーシーは何かを隠している。そして自分も強盗犯であることを隠している。ある種の綱渡りの中、だがイェンスはもう完全に村に溶け込んでいるものだと信じていた。
ところがある日の農作業で…その日は車で遠くのとうもろこし畑に出向いたのだが…何やら不穏な空気をイェンスは感じていた。多くの村の男が参加しているその農作業で、イェンスはとうもろこし畑に分け入って、動物を探せと命ぜられる。小動物がコンバインの継ぎ目に引っかかって作業が進まないことがあるからだというのだ。だが、四方八方が全く見えない背の高いとうもろこし畑に分け入って、右も左もわからない中、イェンスがまだその中にいるというのにコンバインが発進した音がするのだ。イェンスは叫ぶ。まだ俺はこの中にいるのだぞ!だが、イェンスはどんどんコンバインに追い詰められる。生命の危険を感じるイェンス。命からがら逃げ出して、遠い道のりを徒歩で帰る。途中で村人の車にピックアップされて、冗談だよ、というようなことを言われるが、イェンスの気持ちは収まらない。そうだ、そして色々なことがわかってきた。あの裸の写真、あのモデルの女性達は、みんな村人…それも多くが人妻だったのだ。
こんな場所には居られない。イェンスはルーシーの元に帰ると、もうここを出て行こうと決意する。ふと嫌な予感がして、家の前の肥溜めを覗くと、肥溜めの中には男の死体があった。これは…!
イェンスは必死でルーシーの家から逃げ出す。だが、彼を麻酔銃を持った村人達が追い詰める。イェンスは麻酔銃で撃たれ、目が覚めた時には髭も剃られ、こざっぱりとした身なりに整えられ、「ジョルジュ」と呼ばれていた。
イェンスはジョルジュの代わりとして、ルーシーと暮らし、村の生活を行うことを義務付けられたのだ。イェンスはこのままでい続けるのだろうか?イェンスを「ジョルジュ」と呼ぶ村人達は、本当に彼の存在を許しているのだろうか?もしかしたらかつてのジョルジュのように、イェンスも何かちょっとした不始末をしでかしたら消されるのではないだろうか?
ジョルジュとなったイェンスは、村の生活を滞りなく続けた。農作業に行く。ルーシーと暮らす。ルーシーの息子には自分の息子のように接する。ある日、息子を連れて出掛けた農作業から帰ると、家の前では犬が殺され、ただならぬ雰囲気が漂っていた。息子におじいちゃんの所に行け、と指示を出し、ジョルジュであるイェンスはルーシーを探す。果たして、ケルンで犯したカジノ強盗の仲間が今度は二人ともやってきていてルーシーを捕らえて森の中にいた。
金を出せ。隠していた金を掘り起こせ。銃で脅されイェンスは土を掘るが、金はなかなか出てこない。もはやこれまで、と思った時に、息子が伝えたのだろうか?村人たちが大挙してやってきたのだ。ルーシーとイェンスを救うために。そう、暴力で救うために。
オーラス、春の気配が漂う美しきルクセンブルク。村の楽隊の大掛かりな演奏会が開催される。もはやすっかりジョルジュとなったイェンスは、楽隊の制服に身を包み、ルーシーと微笑みを交わす。楽隊の調べは、まるで村の過去から未来までを繋ぐ架け橋となっているようだ。だがその調べには恐らく、表面ではわからないスパイスが入っているのだ。
上映後のQ&Aには監督のゴヴィンダ・ヴァン・メーレが登壇。
ルクセンブルクの南部には実際に「グッドランド」という地名がある。そこは、監督が育った村と環境が似ている。本作品も実際実家の近くで撮影したりした。ルクセンブルク南部は歴史的に農耕地帯。肥沃な土壌である。肥料を北の方にも送り出している。
ルクセンブルクの映画の歴史は浅いが、一番近いのはオーストリア映画なのかもしれない。例えばハネケなど。だが、本作のように、主人公が意識的に徐々に他人に成り代わっていくのはリンチ的なのかもしれない。
本作で意図しているのは、一つの映画が全く別の映画に変わっていく、一人の男が全く別の男に変わっていくこと。彼は作品の前半と後半では全く別人になっている。鼻や歯もいじっている。そして、少しずつメイクを取り除いていっている。
ドイツ語とルクセンブルク語は非常に似ている。この作品は、男がドイツから来た設定にしなければならないと思っていた。ドイツから、にするならドイツ人俳優のフレデリック・ラウにしたい、と思っていた。ルーシー役のヴィッキー・クリープスにも会ってもらってとんとん拍子に決まった。
実はエピローグで、冬から6ヵ月後、カジノ強盗のお金はルーシーとの家の改築に注ぎ込み、ルーシーは妊娠して新しい犬もいる…というような展開も描いていたのだが、ちょっとそれはやり過ぎかと…。そこの部分は明確にせず、皮肉なハッピーエンドで収めることにした。そこでの暮らしがもはや板に付いている祝福感を意識的に描いた。イェンスはアイデンティティを捨て囚われの人になっている。
広い社会を描く為に、縮図である村を描くことにした。例えば村の長のような人がブラスバンドを指揮するメタファーを用いた。そういった点ではこれはメタファーだらけの作品である。ブラスバンドといえば、ルクセンブルクには村には必ず一つブラスバンドがある。宗教も強く、幼子に対する儀式も存在する。消防隊もある。だから、村に入り込む一つの方法は、ブラスバンドに入ることだったりするのだ。
社会の縮図を描くのに、村を描くことにしたという話はひどく納得である。ブラスバンドはルクセンブルクのお国柄だとしても、日本でも地域の消防団があったり、お祭りなどでの役割分担が厳密だったりする。そこは排他的に見えて、一度入り込めば安住の地となり得るのかもしれない。しかし、実は徐々に徐々に、その場の囚われの人になっているのでは…?ひとたび絡め取られたらもう逃れられないのでは…?という問いかけが、監督からなされているような気がして、大変興味深い展開であった。サスペンス調の展開がその奥底で表しているのは、こうした囚われ人の恐怖なのであろう。
(2017年洋画)