
ワールド・フォーカス部門。スロバキア=チェコ作品。監督はヤン・フジェベイク。
1980年代のチェコを舞台に、共産党員の女教師が、自分の権力を嵩にきて生徒の家族に有形無形の「賄賂」を強要し、それがどんどんエスカレートする。そこに糾弾の声を上げる者が出てきたが…。
脚本家のペトル・ヤルホフスキーが、実際に自分の少年時代に起こった出来事を脚本化したもの。脚本もそうだが演出も、じわじわとした恐怖を描き出している。いや正に、「共産主義時代の市民が実感していた恐怖が伝わると共に、マニピュレーションの恐ろしさは時代を越えて現在のどの国でも起こりうることが示される」と東京国際映画祭公式サイトで解説されていた通りだ。

ある建物の朝から夜までの描写から始まる。学校のようだ。バスの乗降客。人の出入り。コート掛けルームには朝は生徒たち、夜は大人達が集う。…夜は大人達が…?
そう、その夜、教室いっぱいに大人達が着席し、臨時の保護者会が開かれていたのだ。何故この保護者会が開かれるに至ったのだろうか?
話は女教師マーリアが赴任してきた時に遡る。普通のクラス風景に場面が転換し、女教師マーリアの最初の赴任日の描写となる。マーリアは挨拶する。今日から新学期。一人ずつ呼ぶから、名前と顔と両親の職業を教えて頂戴。生徒が一人ずつ聞かれた事を答えている情景が、集まっている保護者の情景とシンクロして交互に映される。
保護者会では、フィリップの父がすごむ。元レスリングオリンピック選手である。手を縛っていてもこのクラス全員を倒せるさ。
保護者の一人が問う。何故先生がいないの?当事者だからです。
保護者会を主催したのは、一部の保護者の声を受けて立ち上がった2名の女性管理職であった。これから始まる(きっと紛糾するであろう)保護者会に対して不安の色を隠せない。
再び過去の日に戻る。マーリアは、今日教室で聞いた生徒の両親の職業リストを見ている。部屋にはクリスマスツリーとマトリョーシカ。なにやら色々と考えを練っているようだ。
マーリア。共産党員。共産党の支部長である。亡き夫は将校だった。妹は今モスクワに住んでいる。

2名の女管理職の密談。1人はその学校の校長である。「どう思う?」「排除するチャンスね」…だが、ヘタをしたら私が排除されてしまうわ。だってあの人は共産党の支部長なのだから。などと言いつつある女生徒の自宅を訪問する。その女生徒と家族は転校願いを出していた。…その理由は?
放課後に母が運営する体操教室に通い熱心に体操の練習をする少女ダンカ。明るく積極的な普通の女生徒であった。しかし、マーリアが赴任してきてから状況は一変する。
つまり、マーリアが生徒の親の職業を調べ、その職業の内容に見合った恩恵を公然と求めるようになってから、あからさまな「贔屓」の対象外となってしまったためである。

事の発端はこうだった。美容師の母を持つヘレンカ。マーリアはヘレンカの自宅に赴いて髪にパーマをかけてもらう。代金を差し出すマーリアにヘレンカの母は、いえいえとんでもありません、と受け取らない。そう…とマーリアは差し出した手を引っ込め、ヘレンカの母に耳打ちする。次のテストに出る問題を教えたのだ。
似たような事が次々と起こる。ある家では、航空会社で働く父親が、モスクワに住んでいる妹に、ケーキを焼いて密輸してもらいたいとマーリアに頼まれる。しかし、当時ソ連に物品を送るのは違法であり、どの道彼は経理畑で航空機に乗る業務ではないため無理なのだ。断ると、彼の子供は授業中暗唱をさせられ、教科書通りに回答したのに落第点を取ってしまった。案じた妻がケーキを焼いて、彼は勤務先にケーキを持って行かざるを得ない羽目になったが、結局誰にも密輸を頼めなくて自分でケーキを食べることになる。そして自ら学校に出向いてマーリアに無理な事を話す。代わりにマーリアの遠出の際の車の運転を買って出る。
またある者は、マーリアの家の電気スタンドを無償で直すよう依頼される。もちろん、自宅に馳せ参じて、だ。先のフィリップの父も、洗濯機を直すよう依頼される。
保護者会でのある保護者からの意見。「ストレスに負けるのは先生のせいじゃない。」「自分の過ちを先生のせいにしている。」だが一方で別の意見も出る。「ここは学校だ。先生に絶対的な力がある。これは問題だ。」
特に放課後に体操の練習をしているダンカと、放課後にレスリングの練習をしているフィリップが、マーリアの嫌悪の対象となっていた。彼らの親は、マーリアが望むようには動かなかったからだ。フィリップの父は結局洗濯機の修理を断っている。
ある時のダンカについてのこと。ダンカは何をやっても及第点がつかない。「ダンカ、何度やらせてもどうせできないでしょう?」とマーリア。対してダンカは告発する。「不公平よ。ヘレンカは問題を最初から知っている。」「誰が教えたと言うの?体操をしたいから私たちを悪者に?」「ヘレンカが言ってた。ママが問題を知ってるって。」「あら、でもスポーツで負けて人のせいにするかしら?現実と向き合いなさい。」
ダンカの両親は娘から話を聞き、思い悩む。校長すらマーリアを恐れている。学校を変わらなきゃ解決しない。もしかしたら国を出るべきなのかもしれない。
学校でダンカの成績は最低だった。悪童たちから食堂で、「IQ順に並べよ!」と列を最後尾にさせられる。
遂にダンカは自殺を図る。両親のいない間に不完全燃焼のオーブンの中に頭を入れたのだ。一命は取り留めたものの、今も入院中である。

その一方、マーリアの要求は更にエスカレートしていった。コニャックを手配させ、カツレツを作らせ、生徒には自宅の掃除をさせる。入手しづらい薬を調達させる。やもめ暮らしの男親には独り身の寂しさを訴える。
この男親はヘリットマンという名で、息子はカロル。妻は優秀な天文物理学者であった。だが、この国では能力を発揮しきれなかったので、共産圏でない他国へ行ってしまった。ヘリットマンも納得した別離であった。だが、それが為に彼の自宅は常に公安の監視下に置かれ、電話も盗聴されている日々である。

保護者会は紛糾した。マーリアの悪事を追求し、辞職の署名を行う会の目的は達せられないように思えた。誰しも後ろ暗い所はあるが、少なくとも「ウチは」それで先生と上手くやっている。それにみんな共産党員が怖いのだ。そりゃダンカは気の毒だけれど。
医者なので忙しい、という三つ揃いの背広を着込んだ男親がみんなに尋ねた。「誰が署名しているのか知りたい。」しかし、誰も名乗らない。みんな言いなりなのだ。
ヘリットマンは、もう途中で帰ろうと思った。起立し、妻が国外に行ってしまったことを声高に言って自己紹介をする。そしてトイレに立ったが、後から別の男親が一緒にやってくる。2人で隠れタバコを吸いながら会話をする。いやほんと、もう帰りたくなるよなぁ。なあヘリットマン、まさか署名なんかしないよな?ヘリットマンはそのまま外へ出て、バス停の前まで行く。
教室の中では、フィリップの両親が署名をした。フィリップの父が洗濯機の修理を断った時に、妻は先生に謝りに行くよう頼んだ。だが、彼は頑として拒んだ。人に媚びることを息子に教えろと?妻は尚も懇願する。息子のためよ。だからこそだ!これだけは譲れん!そして妻も夫の正しさに気づく。
彼は教室で息子の話をした。自分は気づかずに息子に体罰をしていた。最近いつも息子がレスリングの練習に遅れてくるからだ。息子は言っていた。先生の機嫌を取らないと嫌がらせされるんだ。先生が洗濯機を直せって。…それでフィリップはダンカと一緒に放課後にマーリアの家に行って手伝いをしていたのだ。息子は先生の皿洗いも絨毯叩きもしない。させないのが親の義務だ。成績を上げるために寄越す気はない。成績を悪くされても俺は屈しない。早く気づかなかった事だけを後悔している。
アレンカの母親が重い口を開いた。アレンカを先生のための買い物の列に並ばせたくなかったから、代わりに自分が並んだ。誰の家庭に起きてもおかしくなかった。
そこへヘリットマンが教室に戻ってきた。そして彼は言う。署名をしたいと。
だが、ヘリットマンの行為は真っ先に署名したフィリップの両親の行為と同様、この中では特殊なものであった。保護者達は署名せずに次々と帰っていく。時間が惜しいと言いながら。最後の賭けとばかりに校長が声を張り上げる。このクラスの上級学校への進学は極めて深刻なのだと。贔屓による成績をマーリアがつけていた結果、他のクラスの上級学校へのテストの合格率が40%〜50%なのに対し、15%しか取れていないという結果になっている。
だが、保護者が帰るのを止めることはできなかった。誰も居なくなった教室をため息と共に見つめる管理職2人。校長室に戻って、2人だけの残念会をしよう。内緒でお酒でも一杯やって。
その頃、マーリアの自宅では、保護者会の様子を報告しに来た保護者がいた。もちろん誰が署名したのかも報告しに来たのである。自分が粉をかけていたヘリットマンが署名をしたことにマーリアはショックを受ける。そして、ヘリットマンの自宅に向かう。あなた、署名したらしいわね。でも私は非力な女。根に持つ人間じゃない。ただ言っておくわ。ここで強いのは共産党よ!捨て台詞である。
父とマーリアのやりとりに聞き耳を立てていたカロルは、夜中にマーリアの自宅に電話をかける。マーリアが出たのを見計らって、電話口で競泳用のピストルを撃つ。
校長室でこっそり酒宴をしていた管理職2人は、廊下に響いてくる足音に驚いて慌てて酒瓶を隠す。なんと、保護者が署名をしたいとやって来たのだ。そして、2人…3人…次々と保護者が個別に署名にやって来る。
署名は成立したのだ。

この話には後日談がある。フィリップはレスリングの選抜選手を目指すが、怪我のため諦め今は指導者となっている。ダンカは精神科医になった。カロルは赤十字によりストックホルムの母の所へ行き、美術学校に入学した。
そしてオーラスは別の学校の風景。別の学校に赴任したマーリア。いつもの新学期の始まりだ。一人ずつ呼ぶから、名前と顔と両親の職業を教えて頂戴…。

Q&Aには監督のヤン・フジェベイクが登壇。
この作品は、友人の脚本家の実体験を映画化したものである。恐怖感を表したかった。ローカルなテーマは海外に持って行っても共通であると思う。
ストーリー自体は70年代~80年代に実際に起きたことだが、社会主義下では制作が不可能だった。90年代、急に自由を手に入れた頃は、あまり恐怖感について触れたくない傾向があったため、今のこの21世紀になってからの映画化となった。
スロバキア語を使い、スロバキアで撮影した。ボロボロの建物を使い、衣装も当時の物を使って80年代~90年代の雰囲気を出した。
シリアルな面とユーモアの組み合わせに魅力を感じている。先生のキャラクターよりも保護者会の方が普通はあまりないことだ。
小・中・高と通じて、校長や副校長になるのはかつては共産党員であることが条件だった。1968年のプラハの春以降の時代は、共産党に入党するのがある種キャリアのためだったりする。この作品の最初のシーンは1983年、ラストシーンは1991年。1989年~90年に共産党政権が倒れているので、このファーストシーンとラストシーンは、体制が変わっても生き延びるという一つのアイロニーとして描かれている。
チェコでも親があまり共産主義のことを伝えていない感じなのだが、映画を通じて共産主義を見せたい、というつもりはあまりなく、恐怖感がどのようなものか、どのように生まれてくるのかを見せたかった。共産主義はシステム自体が恐怖を与えている。
小さい時からお伽話で善と悪を教えられているように、モラルも学び取っていく。それを教えるのが教育だ。真実を知ることが恐怖に打ち勝つことに通じる。多くの場合、人間は恐い様相が無いのに恐がったりする。恐怖は明確な形を取っていないこともある。
親が子どものことを思って行動する、それはある種の言い訳に過ぎない時もある。だが、親が正しくないことをしている時、子どももそれを感じ取っているに違いない。

Q&Aで監督は、「先生のキャラクターよりも保護者会の方が普通はあまりないことだ。」と述べられていたが、こういった感じの保護者会に出たことがない人は幸いである!いや、普通無いよ。と、別の学校にいた人と話をする度言われるのだが、私はこういった保護者会に出たことがある。…しかも一度限りではない。一度でも経験したらもう懲り懲りなのに、二度以上のその経験は、恐怖というよりむしろ諦念を感じさせた。果てしない精神戦であり、忍耐力の試される場だった。だから、一度も共産主義国で暮らしたことがない私でも、この作品の有り様はかなりリアルに感じたのである。
(2016年に観た洋画)