コンペ作品。作品は審査委員特別賞を受賞し、主演のレーネ=セシリア・スパルロクは主演女優賞を受賞した。スウェーデン映画。監督はサーミ民族の血を引くアマンダ・ケンネル。
素晴らしい作品であったのは間違いない。力強く問題点をえぐり出す。女優レーネ=セシリア・スパルロウも素晴らしかった。受賞も納得である。
ただ…観て良かったと思える作品であるのは間違いないのだが、どういう訳か私の中に違和感が残ってしまった。いや、違和感というより、むしろ物足りなさか。
憤りを、民族差別をするノルマン人に向けるべきであるのに、自ら出自を隠し、差別に立ち向かっているように見えて実は同化政策の権化となってしまっているエレ・マリャ(レーネ=セシリア・スパルロク)も、同じ穴の狢のように思えてならないのだ。
いや、だからこそ、それだからこそサーミ民族の哀しみがいや増すのだというのは理解している。サーミ民族として生きることを捨てたマリャの魂が、最後どこに帰結するのか…。
北欧の風景が広がる。とあるホテル。歌声のような音楽が響く。
「母さんの生まれ故郷の音楽だよ。」男が話しかける。対して年老いた女は答える。「私はあそこの人たちとは何の関わりもない。あの人たちは物盗りで嘘つき、いつも愚痴ばかり。」
ホテルの前から車が走り出す。男と老女と男の娘を乗せて。男は老女の息子である。後部座席に座った娘、つまり老女の孫は、赤い花びらを指に巻く。一人一輪ずつ持っているのだ。
行く先は教会だった。老女の妹の葬式なのだ。祭司が弔いの言葉を述べる。「彼女にとって父の死と姉との別離は辛い出来事でした…。」
老女の名は、その土地ではエレ・マリャ。妹の名はニェンナ。
柩への献花を拒むエレ・マリャ。
通夜振る舞いの席。地元の誰かがエレ・マリャに言う。君の妹は君の分のトナカイを毎年マーキングしていた、と。
エレ・マリャは言う。「言葉が判らない。」そして通夜振る舞いの席を途中で退出し、ホテルに戻る。
ホテルのレストランで観光客の一群と同席となった。観光客にどこから来たのか尋ねられて答える。スモーランドから来たの。昔は教師をやっていたの。
レストランの大きな窓から外の風景が見える。それと共にオートバイの爆音が聞こえる。それを聞き咎めた観光客が言う。トナカイ飼いはどこにでもバイクで乗り付ける。サーミ人は自然を大切にする民族なのかと思っていたのに。
部屋に戻ると、通夜振る舞いから戻って来た息子がドア越しに声を掛けてくる。ママ、…クリスティーナ。そう、彼女の今の名前はクリスティーナなのだ。クリスティーナ、ヘリでトナカイのマーキングを見せに連れて行ってくれるんだ。一緒に行かないか?エレ・マリャすなわちクリスティーナは断固として拒否をする。息子は何度か食い下がるが、断念して娘と2人で行くことにする。その時息子は母にサーミ語で呼びかけた。僕が知っているサーミ語はこれしかないんだ、と言って。だが、クリスティーナは心の耳を塞ぐ。
ホテルの前庭からヘリが飛び立つのが見える。波のように押し寄せてくる感情。クリスティーナは、若かった頃、サーミ民族として暮らしていた頃の事を思い出す。
エレ・マリャとニェンナは、2人で小舟に乗って湖を渡っている。これからサーミ民族の為の寄宿学校に入るのだ。父の死がきっかけだったのかもしれない。山の色、山の音、サーミ民族は常にこれらに囲まれて暮らしてきた。姉と妹の瞳は哀しみと不安に満ちていた。ニェンナはヨイクを口ずさむ。ヨイクを歌えば心は帰れるから。エレ・マリャは諭す。ヨイクを学校では歌っちゃダメよ。
学校へ通う道すがら、地元の若者がサーミ民族を見て口々に言う。ラップ人だ。臭えな。あいつら仕留めりゃ賞金が出るぜ。民族衣装を纏い、集団登校をしている彼らサーミ民族の子供たちは、みんな下をうつ向き歩く。
学校ではサーミ語は禁止。全てスウェーデン語で話さなければならない。もちろん読み書きもだ。つまり当時、スウェーデンではサーミ民族に対する同化政策が取られていたのだ。
エレ・マリャは優秀な生徒であった。町から来る「お客」に対して代表で歓迎の辞を述べる役を与えられる程に。女教師の覚えもめでたかった。
ある日、女教師の家を訪ねて中に入れてもらうことができた。特別な計らいである。女教師と会話をする内に、女教師はエレ・マリャに一冊の本を渡す。「本をあげるわ。本当はダメなんだけど。」「何故ダメなの?」女教師はそれには答えない。紅茶を飲む時、女教師が指を立てて飲む仕草を真似するエレ・マリャ。
町から来る「お客」には目的があった。歓迎の式の後、生徒は全員、ひとつの部屋に集められた。服を脱いでベンチに座るよう指示された。窓からは地元の若者たちが覗いている。恥ずかしいし怖いのだが、強制される。そして裸のまま写真を撮られ、あらゆる所を計測される。頭の大きさや顔の長さまで。
屈辱の日は続く。いつものように登校し、いつものように地元の若者たちにからかわれ…だがその日エレ・マリャは黙っていなかった。彼らに敢然と立ち向かうも、男の力に押さえられて、片耳をナイフで切りつけられる。そう、トナカイのマーキングのように。
別の日、女教師の家の前に洗濯物が干してあった。エレ・マリャはそこにかかっていたワンピースを手にとってみる。誘惑に負け、エレ・マリャはそれを着てみる。そしてそのまま道を歩いてみる。普段は民族衣装のエレ・マリャ。服が違うと通りすがりの男たちに声をかけられる。夜になり、森の中の広場でパーティが行われるのに出くわした。パーティに顔を出そうと思うが、自分が臭うような気がして、川で身体を洗う。
エレ・マリャは恐る恐るパーティに顔を出してみた。そして初めての男の人とのダンス。初めてのタバコ。ダンスの相手はニコラス・ウィカンダーと名乗った。そして初めてのくちづけ…。
だが、妹がエレ・マリャを探しにやってきた。エレ・マリャは連れ戻され、女教師によって裸の背中を鞭打たれる。
どうしても行きたい、外の世界へ。勉強すれば行けるのだろうか?女教師に推薦状を書いてもらえれば?エレ・マリャは頼み込みに行く。だが、女教師の対応は…彼女は宣告した。この学校の子はここ以上には進学できない。スウェーデン人とは学力が違うから。あなたたちの脳は文明に適応できない。そういう研究結果が出ている。町に出れば絶滅するわ。脳みそが小さくて人の役に立てないのよ。
失意のエレ・マリャ。色々な事を分かち合ってきた筈の妹も、エレ・マリャに対して冷たい態度をとるようになった。そして2人は激しい喧嘩をする。エレ・マリャはニェンナに叫ぶ。あんたは自分の将来のことも考えられない大バカ者よ!
エレ・マリャは寄宿舎を飛び出し、サーミ民族の民族衣装を燃やす。女教師の服を盗み、町まで行く。ニコラスの家を探し当て、ニコラスが遊びに来いと言っていたと偽り、その晩はニコラスの家に泊めてもらう。ニコラスと過ごす親密な夜。だが、ニコラスの両親はいい顔をしない。翌朝ニコラスに言う。あの子はラップ人よ。妊娠でもしたらどうするつもりなの?
ニコラスは優柔不断な男だ。だがそれでも両親の意向には逆らえず、やんわりとしかし断固としてエレ・マリャに決別を告げる。メイドとして雇ってくれない?と聞くも、無理な相談であった。
ついにエレ・マリャは野宿をする。翌朝、ふと足を向けた図書館で、声をかけられる。新入生?何してるの?早く着替えて。そこは学校の図書館だったようだ。エレ・マリャはクリスティーナ・ライレルと名乗り、授業に参加する。
野宿は続くものの、しばらく学校生活を味わうことになる。友達もできた。オシャレのことなど、これまで経験したことのない会話。しかし、ある日校長から手紙が来る。学費を払うように、と。
お金なんかあるはずもない。ニコラスに借りようと再びニコラスの家を訪れる。安心して、妊娠した訳じゃないわ。ちょっとお願いがあるの。
ニコラスは困惑するが、エレ・マリャを家に招き入れる。そこではニコラスの誕生日パーティーをやっていた。沢山の北欧人が集っていた。容姿の違いは一目瞭然である。エレ・マリャはニコラスに紹介され、しばらく当たり障りのない会話が続くが、その内1人がエレ・マリャにリクエストをする。ねえ、あれを歌って、あれを。ヨーデルじゃない、ほら、あれよ、お国の歌を。エレ・マリャはその場でヨイクを歌う。歌い終わった後の雰囲気にいたたまれない。そしてニコラスにお願いするも、ニコラスはお金を貸してくれなかった。
絶望の内に故郷に帰る。
故郷の雪解け水に、姉妹2人して浸かる。何もかも全て洗い流してくれるかのような。いや、だが私はここでは暮らせない。サーミ民族は嫌。見世物は嫌。
母に学費を出してくれるように頼む。そんなお金はないというのに、エレ・マリャは畳み掛ける。父さんの形見の銀のベルト、あれを売ればいいじゃない!…何て事を言うのか…!
望みを聞き入れてもらえないエレ・マリャは居住区を歩き回る。そうだ、私のトナカイ。トナカイを殺して売れば…!逃げ惑うトナカイを一頭捕まえ殺すが、そこに母と妹がやってきた。母の手には父の銀のベルトが握られていた。
怒涛のように押し寄せてきた思い出。今は老女となったエレ・マリャは、一人教会まで足を運ぶ。妹の柩はまだ安置されていた。妹の亡骸に寄り添い、エレ・マリャは呟く。サーミ語で。「私を許して…。」
ラストはエレ・マリャが単身で山に分け入るシーン。年老いた身体で岩場をよじ登り、サーミ民族の居住区に辿り着く。俯瞰で見るサーミ民族の居住区。乱れた白髪。
Q&Aは、監督のアマンダ・ケンネルと主演女優のレーネ=セシリア・スパルロクが登壇。
サーミ民族とは、ノルウェー・スウェーデン・フィンランド・ロシアの北部に居住する少数民族。フィンランド語に近い独自の言語を用いる。ここに出てくるサーミ民族が用いる南部サーミ語は、今や世界で500人しか話すことができない。絶滅に瀕している。
この作品は、1930年代の同化政策の頃を描いている。当時はこのようにサーミ民族を寄宿学校に入れて、母国語の禁止を行っていた。学校で習わないと、一度失った言語はなかなか取り戻せない。
同化政策からマイノリティ政策に移り変わった今、サーミ民族はどうなっているのか?サーミ民族の中でも、遊牧で生計を立てているのは10%に過ぎない。その他は漁で生計を立てていたりするが、最近では水や土地に対する権利が危うくなっている。自殺率も高い。
作中に出てくる今のサーミ民族に対する文句(バイクの音のことなど)は、地元民がサーミ民族に対して言う文句を拾ったそうだ。他にももっと酷い文句を言われているが、それを入れるとあまりにキツくなってしまうとのことだ。
主演女優のレーネ=セシリア・スパルロクは東京国際映画祭に招待された時に、最初は「トナカイの世話があるから行かれない」と可愛らしすぎる理由の返事をしたとか。監督とは、スウェーデンのウネヤで会った。現在の暮らしだが、土地を守るのも大変だし、家族の世話も大変、トナカイが線路に立ち入らないように見張っているのも大変だ。
自分が演じたエレ・マリャは、自分にとっては遠い存在である。彼女は故郷を離れたかった。だが、自分は民族に誇りを持っている。昔はこれを隠さなければならなかったが、今は堂々としていい。誇りに思っていい。当然自分はサーミ民族であることを誇りに思っている。
監督のアマンダ・ケンネルは、この作品を通して民族の精神的な植民地化を描いている。言葉や過去を切り離せば、人はどうなるのか?サーミ民族であることを恥だと思っている上の世代に観て欲しい作品である。監督業は、結論を言う訳ではなく、問いかけるものだと思っている。自分を問い質す鏡のようなものだ。
カメラを寄せて撮ったのは、エレ・マリャの経験を通して主観的に伝えたかった。学術的アプローチではなく、閉塞感を示したかった。
後に、作品を通して私が感じた気持ちの理由が判った。このQ&Aでも語られていたが、今、サーミ民族である彼女達はサーミ民族に誇りを持っている。そしてエレ・マリャも、最後には悔恨も込めて故郷への思慕を募らせている。であれば、あの時残された妹たちの居住区での生活を、その生き方を、もっと描いて欲しかったのだ。それでこそ、故郷を捨てた哀しみと愛する者が帰って来ない苦しみが顕になるような気がする。同時に、その生活を掘り下げることで、少数民族に対する畏敬の念が強まったに違いないと思うのである。(2016年に観た洋画)