試写会で観ました。上映前にトークショーがあり、映画コメンテーターの有村昆さんと、オカルト評論家の山口敏太郎氏のかけあいがあったのだけれど、これが意外と儲けものだった。ローカルなオカルト・スポットの紹介あり、東京のパワー・スポットの解説あり、と…私ってまるで中高生男子ですな。
マヤ暦では、今年2012年12月12日に世界の終末が訪れるらしい。なんか一応、それにインスパイアされた作品らしいけれど…。4:44…。ゾロ目の符号。不謹慎だから、マスコミは書いちゃダメ!と言っていたけれど、私はマスコミじゃないし…。というような話しも展開され。ただ、マヤ暦は5節に分かれ、その最後の節の最終日が2012年12月12日ということだそうで、マヤの文化に倣うと、輪廻でぐるっと回っていく文化だから、又元の第一に戻るだけ、で、決して終末=滅亡ではない、と、山口敏太郎さんはおっしゃっていました。
で、肝心の映画ですが…。最期の日を、その時を迎えた時、人は何をするか、がテーマです。…頑張って解釈すると…。
まあ、家族で過ごすことが定番で、しかしそれにしても、あまりにも日常の延長というか、何の混乱もなく粛々と、整然と、地球最期の日が過ぎていくことに、違和感を感じるものの、もしかしたらこういう風に淡々と迎えることこそが人類の選択だったのか…?とも思いました。
ウィレム・デフォーとシャニン・リーは不倫の果てのカップルで、最期の日を迎えるにあたって、ヤルことヤリながら、ウィレムは友人や娘や前妻とスカイプで会話、シャニンは芸術家らしく、絵画の最後の大作を描き続けます。街はあくまでも日常の延長。地球最期の日って、もうちょっと、暴動や略奪が起こってもおかしくないんじゃないの?と、思うものの、世界各地では宗教的儀式は執り行われているものの、暴れん坊の存在は一切無し。最期の日だからこその諦観で、それまでは暴徒が荒れ狂っていたか、といえば、そんな痕跡も無し。あらゆる世情よりも、家族や今そばに居る人が大切、という、自己中な、小さな世界観の中での出来事、ある意味、「終わった」感がある展開でした。
そう、ちょっと作品としてはビミョーでした。が、この小さな世界観の中での諦観、には、考えさせられるものが確かにありました。我が家なら、その日一日は好きな音楽を聴きながら、好きなものを食べて…といきたい所だけれど、食事の選択や音楽の選択でケンカになったりするんだろうな、というくだらない(でも非常に現実的な)想像をしたりして。
にしても、ウィレム・デフォーは、もっと出る作品を選んだ方がいいと思う。
あと、ゾロ目には気を付けろ!
(2012年洋画)